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CD制作を巡るなんたらかんたらPart4

第4話
- 「ターンテーブル」のこととか・・・ -
(2年目/8年)



1998年のこと、ジョージ(仮名)に連れて行ってもらったロックバー「ターンテーブル」は、それまで職場の近くの飲み屋で上司や同僚と飲むことがほとんどだった僕の生活スタイルを変えたと言ってもいいくらいインパクトのある店だった。

薄暗い照明の中にブラックライトに照らされたグラスが浮かび上がっている。店内を取り囲むように棚には無数のレコードが整然と納められていた。当たり前だけどロックが店中に鳴り響いている。
そして、イチローさん・・・ 。金色に染めあげた髪の毛が長髪なのに立っている。全てが新鮮だった。若い時にロック喫茶、ジャズ喫茶は行ってたけど、ロックバーは知らなかったなあ。36才にして新しい発見をさせてもらった。

I「何かリクエストは?」
U「う〜ん」
I「じゃあ何が好きですか?」
U「ジェネシスが・・・ 」
I「自分もジェネシスが一番好きですよ」
U「え゛〜!」
ジェネシスが一番好きなんて言う人はあんまりいない。しかもロックバーの店主が・・・。うれしかった。

平日でも家に帰ってから子供達を寝かしつけた後、出かけて行ったことも何度か。仕事をするようになってから、家でいわゆる音楽鑑賞はほとんどしなくなっていたので、好きな曲を聴きながら酒が飲める場は最高だった。
それとロックバーだから当然音楽をやっている人達が多く、「自分も今CD制作してるんですよ」と全然進んでないのにそんなこと言って《音楽をやってる人》っていう感じに浸っていた。

長い間、自分のCD制作に対する思いというかモチベーションが下がらなかったのは、この店でいろいろな人達と話し、酒を飲み、音楽を聴く時間を過ごすことがあったからなのかなあと思う。

お店に通い始めた頃、CD制作をすることを知ってイチローさんが僕に
「とにかく"もの"(音)に残すことが大事。」と話してくれた。
出来上がった今、本当にそう思っています。

そんな「turntable」は昨年12月で開店10周年を迎えました。

- つづく -

CD制作を巡るなんたらかんたらPart3

第3話(気を取り直して・・・第2話のもとい)

- フィル・コリンズの“導き”による再会とか・・・ -
(2年目/8年)


第1話から少し話がさかのぼるが、鶴岡から再活動要請を受ける2年前の話。

1995年に大好きなフィル・コリンズが来日し、鶴岡と二人で代々木体育館にコンサートを見に行った時のこと。
コンサートの第1部が終わり、休憩時間に鶴岡がトイレに行って帰ってきたら、何とそのトイレでジョージ(仮名)と会ったと。1万人以上収容する会場の中で会った。そりゃすごい!

で、コンサートが終わった後、ジョージ(仮名)と鶴岡と3人で飲みに。そこで再会を喜び、お互いの近況を話し、何かあったら電話ちょーだいとジョージ(仮名)が連絡先を教えてくれて別れた。
この時は再活動するなんて思ってもいなくて、“まあ、いつかやりたいんだけどねえ”くらいの話をしたくらいじゃなかったろうか。でもこの再会がなければ、再活動する上で一緒にやってほしいなんて気軽にお願いできなかっただろう。そういう意味じゃ、再会できたのは愛しのミュージシャン、フィル・コリンズの導きがあったからに違いない。ありがとう!フィル!

で、話を戻すと・・・ 。
鶴岡から再活動要請を受けた後、曲を作るにあたっては、「今までバンドでやってきた曲とは方向性やスタイルの違うもの」「時代に囚われないもの」などなどあれこれ考えていたが、最後は「自分がやりたいもの」に尽きた。
自分に無理のないテンポ感、コーラスを重視した曲・アレンジ構成などなど。
ジョージ(仮名)にOKもらうためにもラフなデモより、きっちりアレンジしたデモでイメージをつかんでもらったほうがいいだろうと音を重ね、できる限り最終イメージに近づけるように作っていったので、えらく時間がかかった。

とにかく曲がなければはじまらないと創作活動の日々。と言いたいところだが、実際は仕事とかに時間を取られ、なかなか進まなかった。曲やアレンジに煮詰まったりしたし。結局これだけで1年を費やしてしまった。

CDのために用意した曲は全部で14・5曲あったかな?捨てがたい曲もあったけど、全体の構成も考えて9曲に絞った。
曲の中にはバンドでやっていた時の曲とは全く方向性が違うような「こんな簡単なコード進行でもいいのか?」といったストレートな曲も何曲かあった。
「これでいいのかな?」と思った時期もあったけど、当初思い描いていた「自分がやりたいもの」を大事にして納得した。

さあー、曲は出来た!あとはジョージ(仮名)だ。

フィル・コリンズのコンサートで再会してから2年以上も経っていた。
連絡がついてデモを聴いてもらうことに。それで「うーん・・・ 」となればCD制作はきっぱりあきらめようと思っていた。
緊張しながらアフタービートのレコーディングルームへ。

高校時代、鶴さんと前田くんとキムの4人で「理想の音楽やろう」っていう時があった。鶴さんの家に集まり、メンバーそれぞれ作ってきた曲を持ち寄って作戦会議。みんなに自分の作った曲が受け入れられるか、反応が怖くてめちゃくちゃ緊張していた。
そんな思いが甦ってくるような時間だった。

缶ビール飲みながら、ジョージ(仮名)は曲の途中で飛ばすことなく9曲全てを聴いてくれた。その間50分位。

G「この曲で何がやりたいの?」
U「ジョージ(仮名)の手を借りてレコーディングをきっちりとやりたい。あと出来上がればライブも・・・ 」
G「こういうの嫌いじゃないし・・・ 」
U「(やったぁ!)」

このあと、ロックバー『ターンテーブル』に初めて行きました。
1998年3月のことでした。

- つづく -

CD制作を巡るなんたらかんたら2

第2話
- フィル・コリンズの導きによる出会いとか・・・ -
(1年目/8年)


鶴岡から再活動要請を受けた後の何ヵ月後、びっくりする事が起きた。フィル・コリンズが来日し、鶴岡と二人で代々木体育館にコンサートを見に行った。第1部が終わり、休憩時間に鶴岡がトイレに行って帰ってきたら、何とそのトイレでジョージ(仮名)に会ったと。1万人収容する会場の中で会った。そりゃすごい。CD制作のことが話せる。なんといいタイミングなんだ。

で、コンサートが終わった後、ジョージ(仮名)と飲みに行くことになった。そこで事(こと)の趣旨を説明し、「デモが出来たら聴いてね、また連絡するね。」のような話をしたと思う。やってもらえるかどうかの判断はその場ではなかったけど、とにかくコンタクトが取れたのがうれしく、一歩前進したように感じた。
愛しのミュージシャン、フィル・コリンズの導きによって再会できたのであった。ありがとう!フィル!

と、ここまで書いてから新事実発覚!!というか自分の時間的な勘違いによる大ウソの文章であることが発覚した。当事者である鶴岡の証言では、ジョージ(仮名)との電撃的再会は「鶴岡から再活動要請を受けた後の何ヵ月後」ではなく、「鶴岡から再活動要請を受ける前の(なんと)2年前」だった・・・。ショック!!

インターネットでフィル・コリンズのコンサート調べてもみんな1995年だった。やっぱり8年9年前の出来事は大昔の話で、記憶も薄れてしまっている。「デモが出来たら聴いてね、また連絡するね。」のような話もするわけがない。
「やってもらえるかどうかの判断はその場ではなかったけど・・・」当たり前だ。再活動する気はその時はまだなかったし、つまり「ただ久しぶりにあった」 → 「飲みに行った」だけなのだから。チョー適当!

そうなると第一話の「活動休止してから5年間はまったく会っていないし、第一、今どこで何をしているのかもわからなかった。」もウソっていうことだな。まあ、僕の文章なんてどこをどう間違えようが大勢に影響はないんだけど。

「大好きなフィル・コリンズが僕の再活動の門出を祝って長年音信不通だったジョージ(仮名)と引き合わせてくれた」というまるで小説のような展開だと思ってたところだったのでちょっと残念!気を取り直してもう一度書き直そうっと。

- つづく -

CD制作を巡るなんたらかんたら

- はじめに・・・ -

CDの納品日、わくわくしながら帰宅すると、目に飛び込んできた大量の箱に『やっとできたなー』という思いより、『この量をどうやって捌(さば)こうか?』という少々現実的な思いが先にたってしまった。しかし箱を開けると『Drifting Boots And Go Boating / USK』とタイトルされたCDケースが整然と並んでいて、それは壮観な光景だったので、見た瞬間に気分はすっかり良くなった。

100枚入りの箱からどれも同じなのに選んで1枚抜き出し、キャラメル包装を剥く時、ブックレットをCDケースから出す時、CDをケースから取り出す時、それぞれの動きは他の人のCDを聴くときとは明らかに違う仕草である。うれしい!素直に。このCD制作に携わってくれた皆さん、ほんとにありがとう!やっと完成しました!!

しかしながら1枚のアルバムに何でこれだけの時間が費やされてしまったのだろう?あまりに長過ぎて記憶から抜けていく出来事もちらほら出てきそうだ。だからって訳じゃないけど、これから何回かに渉ってCD制作を巡るなんたらかんたらを記そうと思います。

第1話 ー CD制作することになったきっかけとか・・・ ー(1年目/8年)

思えば随分と長くかかったなあ・・・ 。当然というか、率直にそう思います、9年ですから。
10代から続けていた音楽活動は30歳を境に休止してからあっという間に5年。日々とはそんなものなんでしょう。日常に忙殺され、気がつけば時間なんてあっという間に過ぎていってしまう。

そんな時「もう一度やった方がいい」と古くからの音楽仲間である鶴岡に活動を再開するよう促された。これに対して自分は『もし次にやるとしたら、バンドを結成してライブ活動をするというスタイルではなく、自分の曲を形に残して、納得するまでレコーディングをやってみたい。』と、それまで漠然と考えていた思いを話した。そしてもうひとつ重要なこと。再開するにあたっての条件のようなもの。それは『再活動するに当たっては音楽的知識・技術が豊富な人と創り上げたい。』ということ。となれば自分が知っている中ではジョージ(仮名)しかいない。そう結論を付けた。しかし、ジョージ(仮名)とは20代にスタジオ・アフタービートを通じて知り合ってから、バンドのレコーディングではエンジニアとして関わってくれていたけど、それも5年前までの話。活動休止してから5年間はまったく会っていないし、第一、今どこで何をしているのかもわからなかった。「『やれる状況じゃない』とか『曲が趣味じゃない』とか断られたら・・・」「まあそれはそれとして、まず曲作りをしてからだね。」みたいな話でその場は終わったと思う。

こんなことがあって、じゃあやってみるかと5年振りに鍵盤を叩いたその時が1997年の夏。まだ下の子がかみさんのお腹の中にいる頃、今は小学3年生です。

- つづく -